当施設では美味しく食事をするということを大切に考え、開設当初より歯科衛生士が常駐し、口腔ケアと口腔機能の維持向上に力を入れています。
江戸時代の中期頃より西陣織の中心地として栄え、一日千両に値する生糸・織物を商ったとされることから、この地 (大宮通り今出川辺り)が『千両ヶ辻』と呼ばれた。現在も生糸問屋・織物問屋西陣織関連業種が存在している。幕府 の政策で、江戸時代初期より天保時代まで続いた糸割符制度により、糸割符商人がこの地に何軒も存在した。特に元 禄時代から続く糸割符商人の『渤海家』の存在は大きく、屋敷の地は織豊時代に聚楽第の城郭の北側に位置し、それ に因みこの地の町名は北之御門町となった。
『渤海家』は宝永二年(1704年)に八文字屋茂兵衛(深海茂兵衛:後代に公称『渤海』と姓を改める)が購入し 312年続いた糸割符商人の屋敷であった。二代目北門は糸割符商人から和糸問屋との兼営を許された。六代目茂左 衛門将之は糸割符仲ヶ間の組頭役などを歴任後年寄職も仰せつけられ、町人で有りながら苗字帯刀を許され用向きの 折りは、式服帯刀し伝存の九尺柄の槍を従者に持たせ当局に参殿し年頭拝礼には二条城へ伺候したとされる。 『渤海家』は大正時代中頃まで生糸問屋を営んでいた。
※糸割符制度(いとわっぷせいど)
江戸幕府の生糸の輸入管理政策で指定輸入商(糸割符商人)いわゆる政商達に分割配分する独占の商権を与え、共同
仕入をする糸割符仲ヶ間の結成を許した。鎖国による糸割符制度は、輸入統制であり専売権を与えられた糸割符商人
達は、一切の輸入生糸の分け前にあずかる特権を有していた。江戸中期には、和糸(国産生糸)の増産により輸入量
が減少し糸割符商人は、衰退の道を歩んだ。
平成十七年 渤海家【糸割符商人・八文字屋】 仲治實(大文字屋治實) 編纂より